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ラストサムライたちの戦い ー 西南戦争 ー

戊辰戦争後、一度は鹿児島に戻った西郷でしたが、明治政府の参議となります。特に大久保利通らが欧米諸国へ使節団として向かう中その留守を預かる「留守政府」として、「学制」「地租改正」「徴兵令」などを実行しました。しかし、その後朝鮮への使節派遣をめぐり大久保利通らと対立、明治6(1873)年10月、職を辞して鹿児島に戻ることになります。
鹿児島での西郷は「武村の吉」と名乗り、農作業や温泉湯治を繰り返す日々を送っていましたが、西郷を慕って多くの旧士族が鹿児島に帰ってきており、その合間に私学校や吉野開墾社を設立しました。明治9(1876)年になると、西日本では旧士族による反乱が発生。西郷隆盛のもとにも多くの人々が集まる状況を新政府は警戒し、警視庁は密偵を派遣して、情報収集に努めていました。
また、当時の鹿児島では国分の敷根や鹿児島の磯を中心に国内最大級の規模で火薬や弾薬の製造が行われており、保管も多くなされていました。政府は密かにこれらの火薬や弾薬を鹿児島から運び出そうとしましたが、前述の密偵の派遣や、全国で起こっていた一連の旧士族の不平や不満の動きが交錯し、ついに密偵の捕縛、草牟田・磯の火薬庫等の襲撃を私学校の生徒が大挙して行うという事件に発展しました。 
西郷隆盛は「密偵派遣の真意を新政府へ尋問する」ことを大義名分として兵を率い東京へ向かうことを決意。明治10(1877)年2月17日、西郷軍本隊は鹿児島を出発して熊本鎮台の置かれた熊本城へ向かい、国内では最後かつ最大の内戦が始まりました。
南九州各地に戦線は拡大しましたが、政府軍によって鹿児島を抑えられると物資の補給にも困るようになり敗走が続き、西郷はその年の9月鹿児島に戻った数百の兵と一緒に最期の時を迎えることになります。

明治6年の下野から西南戦争勃発まで

スポット情報:[1]〜[4]

熊本、宮崎、鹿児島で繰り広げられた戦いと西郷軍の敗走

スポット情報:[5]〜[13]

城山での籠城と西南戦争の終焉・西郷隆盛の死

スポット情報:[14]〜[19]

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