◆島津氏の栄華が今も漂う城下町へ
鹿児島といえば桜島。城山を背景に錦江湾と桜島に面して市街地が広がる。その中心に外様大名第2位、72万石の薩摩藩の拠点「鶴丸城跡」がある。 篤姫は、島津家の分家である今和泉島津家の10代当主・忠剛の長女として鹿児島城下に生まれた。「屋敷跡」を訪ねてみると、周辺は島津家ゆかりの寺社が集まる閑静なたたずまい。西郷隆盛が眠る「南洲墓地」もこの近くだ。 海沿いに下って行けば「仙巌園」がある。「尚古集成館」には薩摩藩第11代藩主・島津斉彬によって推進された江戸時代の薩摩切子も展示されており、敷地内には工房とギャラリーもある。復刻されたその技術と輝きは、歴史のロマンを湛えて観る者を魅了する。幕末から維新にかけて薩摩が生んだ偉人は数多いが、中でも篤姫はピカイチ。切子の輝きのように薩摩の宝石といってもよいのでは。
※画像:鶴丸城跡(鹿児島市)
明治の初めまで島津氏の本拠だった平山城の遺構。ここを中心に点在する数々の史跡と、別邸だった海側の「仙巌園」と合わせてさつま史跡散策とするなら、丸1日ゆっくり時間を取りたい。
今和泉島津家本邸跡(鹿児島市)
篤姫の生家でもあった今和泉島津家の屋敷跡。みごとな石垣が残る。
◆花嫁はスパイ?
篤姫の運命を変えた養父・斉彬との密約とは!
1835(天保6)年に生まれ、維新をはさんで1883(明治16)年に没するまで篤姫の生涯は波乱に富む。そのまま薩摩にいれば歴史の舞台に登場することもなく普通の人生を歩んだであろう篤姫の人生を変えたのは、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬のある思惑。斉彬は水戸の徳川斉昭らと家定の後継の14代将軍に斉昭の子・一橋慶喜を就けることを画策、そのためには大奥における根回しが必要と篤姫を養女にして徳川家に送り込んだといわれる。
宮尾登美子氏の小説「天璋院篤姫」やNHK大河ドラマでは、藩主の養女になったときから実の親子が主従関係になってしまう展開が、篤姫の複雑な心理描写とともに描かれていた。それ以降も公家の養女、御台所と身分立ち場が変わる度に精神的に自立していく篤姫。それは女としての幸せから遠ざかる人生への歩みでもあったのだが…。そんなことを考えながら、歴代当主が眠る島津家の墓地をお参りする。
◆篤姫の花嫁道具は西郷隆盛がコーディネート!
二人の深い絆とは。
西郷隆盛。言わずと知れた薩摩のスーパーヒーローだが、藩主・斉彬に命じられて篤姫の婚礼道具の調達をしたことは意外と知られていない。薩摩の威信と財力を全国に知らしめるため、花嫁道具には莫大な費用が充てられ、西郷は京をはじめ諸国を駆け回って特上品を調達。おかげで金銀工芸品や織物、茶道具などに目が利くようになったといわれる。
「市立美術館」のそばに立つ西郷隆盛像
下級氏族の家に生まれたが、藩主・斉彬に引き立てられ、側近として活躍。篤姫が江戸に輿入れ後は篤姫付きの奥女中を通して情報収集、政治工作に奔走。後に新政府の参謀として江戸に追った際には、篤姫から徳川家存続を願う嘆願を受けて、江戸城を無血開城した。西南戦争に敗れ自決、南洲公園内にある墓地に眠る。
◆日焼けが似合うおてんばのお姫様
※画像:石橋記念公園(鹿児島市)
市内を流れる甲突川に架かっていた3つの橋を移設・復元した公園。このあたりは当時の文化の中心地でもあり、名門家の別荘地帯でもあった。
◆篤姫ゆかりの地を訪ねる
風光明媚な今和泉島津家の領地へ、松林をよぎる少女は・・・篤姫?
鹿児島市内より列車で約50分の薩摩今和泉駅。江戸時代には今和泉郷の中心として栄えた。22代当主島津継豊の弟である忠郷によって再興された今和泉島津家は、この地の領主となった。それだけに、集落内には今和泉島津家ゆかりの史跡が数多く点在している。
※画像:知林ヶ島(指宿市)
松林をよぎる少女は・・・篤姫?
篤姫にとっては実父にあたる忠剛や兄の忠冬が眠る今和泉島津家墓地や、その菩提寺であった光台寺跡(現在は一般墓地となっている)がある。また、現在の今和泉小学校や指宿商業高校の敷地には、今和泉島津家の別邸(本邸は鹿児島城下)があった。篤姫も幼少の頃、眺めていたであろう松林、他にも小学校内には、屋敷で使用されていた手水鉢や井戸跡などが保存されている。(小学校内の見学については問い合わせが必要。)
※画像(左):今和泉小学校内にある手水鉢
※画像(右):海側に残る松林と石垣群
※当ページは一定の調査を元に制作をしておりますが、歴史認識と人物評価には多様な考え方があるため、異なる認識をお持ちの場合にはご了承ください。